【球界平成裏面史(33) 中日落合監督解任騒動の巻(5)】平成23年(2011年)10月18日、中日は球団史上初のリーグ連覇を達成。翌日のスポーツ紙で、最大10ゲーム差をひっくり返す逆転Vの原動力と報道されたのが坂井克彦球団社長の「敗戦ガッツポーズ」だった。当時、落合博満監督の解任に動いていた坂井社長が、中日が負けた試合後にガッツポーズ。これを知ったナインが「ふざけるな!」と奮起し「あれで流れが変わった」(落合監督)というものだ。
果たしてガッツポーズは本当にあったのか。坂井社長がしたとされた場面は2説ある。9月6日のナゴヤドームの巨人戦と同18日の東京ドームでの巨人戦の試合後。当時のスポーツ紙などの記事では「ナインや多くのチーム関係者が目撃」とされているが、これは事実ではない。「目撃した」と言われていた選手、球団関係者は後に総じて「自分が見たわけじゃなく噂を聞いただけ」と主張。チームの中に実際に目にしたと言っている人物は一人もいなかったのだ。
「ガッツポーズを見た」と証言しているのは2人の人物。6日の試合の目撃者はスポーツ紙の記者、18日の試合は放送関係者といずれもマスコミの人間だった。球場は違うが、目撃場所はともに試合後の関係者通路。人気カードの巨人戦で試合後はマスコミなど関係者でごった返す場所でもある。多くの人の中で1人だけが目撃したというのは少々解せない。
「敗戦ガッツポーズ事件」は優勝翌日の10月19日にデイリースポーツが実名報道。夕刊紙の特性上、本紙も実名で追随することになった。実名で報道した以上、坂井社長の主張も載せなければアンフェアだと、記者は罵声を浴びせられるのを覚悟で直撃。「そんな記憶はない。ウソ発見器にかけてもらってもいい」との坂井社長の反論を10月21日付の本紙に掲載した。
ただこの記事には書いていないが、直撃したとき明らかに怒りに満ちていた坂井社長は、顔を震わせながら記者にこう迫っていた。「私の主張なんか載せてくれなくていい! とにかく謝ってくれ。あんなにひどいことを書いたんだから、私に謝ってくれ!」。何度も謝罪を要求されたが記者は「話も聞かずに実名で報道したことは謝りますが、記事の内容を謝ることはできません」と突っぱねた。
その日、試合後のナゴヤドームのグラウンドではリーグ優勝の記念撮影。坂井社長がグラウンド内に足を踏み入れると新聞を読んだであろうファンから「坂井辞めろ!」「坂井許さねえぞ!」「死ね!坂井」と容赦のない、聞くに耐えない罵詈雑言が浴びせられた。
撮影を終え、グラウンドから引き揚げた坂井社長は通路で記者を見つけると「ごらんの通り」とばかりに手のひらを上に向け、悲しげな笑顔を見せた。さすがにいたたまれなくなった記者が思わず頭を下げると、肩をポンと叩きその場を立ち去った。
その後、中日球団はデイリースポーツの「ガッツポーズ報道」に対して猛抗議。白井文吾オーナーが烈火のごとく怒ったという。デイリーは10月29日付の紙面で「本人確認という基本を怠った記事でご迷惑をおかけした」と謝罪記事を掲載。ただ同じく実名報道した本紙におとがめはなかった。後で聞いた話だが、中日新聞の関係者も不思議に思ったらしい。「なぜ中京スポーツ(東スポ)には抗議しないのか」と坂井社長を問いただすと「あそことは手打ちにした」と答えたという。
リーグ優勝決定後も落合監督とフロントの“暗闘”は続いた。この年は東日本大震災の影響で開幕が遅れ、日本シリーズが11月にずれ込んだ。10月いっぱいで契約を終えている落合監督の11月以降の給料は年俸3億3000万円の日割りで決まったが、落合監督は優勝出来高の5000万円を加えた3億8000万円の日割りを主張して譲らず。オフの優勝パレードでは欠席をちらつかせて200万円の“ギャラ”を要求した。その都度、フロントは白井オーナーにお伺いを立て頭を下げ、了承してもらうなど奔走するはめとなった。
落合監督の解任でヒーローとなるはずが、悪玉に仕立て上げられ、心身ともに最後の最後まで苦しめられたフロント陣。希代の名将のクビを切った代償はとてつもなく高くついた。